せっかち

せっかちだ。せっかちすぎて時々、自分でも嫌になる。

 

合気会の稽古が終わり、駐車場に向かう途中、武道館の下駄箱で、ポケットに入っているはずの鍵がないことに気付く……はい、この時点でかなりせっかちだ。武道館から駐車場まで、100m以上離れている。鍵なんて、車の手前で取り出せばいいものを、せっかちな俺は、このように早々と探し始めてしまうのだ。


鍵は、いつもズボンの右のポケットに入れることにしているのだけど、その日はなぜかそこに入ってなかった。たまに、上着の右ポケットに入れることもあるので、上着の右ポケットを探してみるが入ってない。さては左か?と、(そのとき、左手には大きめのカバンを持っていたので、)右手を伸ばして左側のポケットを探るが見つからないので、少し焦りだす。しかし、右手で、左側のポケットに手を伸ばしているので、ひょっとしたらまだ触れてない部分があるのではないかと思い、左手に持っていたカバンを下駄箱のスノコの上に置いた。そのとたん、ジャランジャランという音とともに鍵がでてきた。

 

 

すべての謎は解けた。

 

 

なんてことはない。鍵は、カバンと一緒に左手に握られていたのだ。つまり、更衣室で、俺は鍵を取り出して、カバンと一緒に鍵を左手に持ち、車の鍵を開ける準備をしていたことになる。これは、いくらなんでもせっかちが過ぎるではないか。年をとるとともに、せっかちさは加速していき、新生されたせっかちな俺が、かつてのせっかちな俺を追い越してしまっているのだ。

 

 

 

 

そのうちに俺は、常に車の鍵を手に持ちっぱなしにするかもしれない。きっと、電車に乗っても、手に切符を持ちっぱなしにするだろう。食事に行ってオーダーしたら、ナイフとフォークを持ちっぱなしのまま料理が出てくるのを待つことになるだろうし、ボーリングに行ったらずっとボールを持ちっぱなしになり、カラオケに行ったらマイクを離さないだろう。そして、妻の誕生日には、薔薇の花束を持ちっぱなしになるに違いない。サプライズのつもりだったというのに。なんてことだ。

 

いつかやってくるかもしれない末娘の結婚式では、泣きっぱなしになるだろうし、年老いてきた仲間たちとの集いでは、病気の話ばかりをしっぱなしになるのだ。グランドゴルフ場は、予約しっぱなしになるだろうし、入れ歯は外しっぱなしになるし、「めひはまだはいの?(飯はまだかいの?)」と言いっぱなしになって、徘徊しっぱなしになるだろう。もちろん、手には家の鍵を持ちっぱなしだ。ジャランジャラン。

 

待ちに待った念願の娘の子、つまり孫は、甘やかしっぱなしになるだろうし、孫の紙オムツも俺の紙オムツもつけっぱなしだ。

 

その頃になるともう、時が過ぎるのは恐ろしく早く、あっという間にやってきた孫の結婚式の披露宴では、ナイフとフォークを持ちっぱなしの泣きっぱなしの病気の話をしっぱなしだ。俺は、マイクを離さず、大泉逸郎の『孫』を歌いっぱなしになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

それでも毎年、妻の誕生日には、サプライズの薔薇の花束を持ちっぱなしのまま徘徊するだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつの間にかたどり着いた妻の眠る墓の前で、俺はきっとこう言うのだ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「めひはまだはいの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャランジャラン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おひまい