闘争心について

昔から僕には闘争心がない。これは持って生まれた性格なのだろうか。


43年前の吐く息も白くなる1月の中頃に、僕はオギャアとこの世に生を受けた。そう、僕が早生まれで身体も小さかったことで、昔から同級生には、何をしてもかなわなかったこともその要因のひとつとしてあるだろう。「どうせ勝てないだろう根性」が染みついてしまっていると言えるのかもしれない。もちろん早生まれで身体の小さい皆が、僕のように闘争心がなくなるというわけではないだろう。しかし、僕の闘争心がない原因はそういうことなのだ。一般性があるかどうかは関係ない。とにかく僕には、オギャアと言って生まれた瞬間から闘争心なんてないのだ。

僕の闘争心のなさはこんな調子だった。

例えば運動会の騎馬戦では、進んで下の馬の後ろ脚を担当した。いざ出陣となり、運動場に舞い上がる砂埃の中、体操帽を獲るか獲られるかの真剣勝負があちこちで始まる。しかし、僕らに突っ込んできた敵が、圧倒的にデカくて、「帽子になんぞ興味はないっ!崩せっ!崩すんじぁっ!!」ってな場合にゃあ、僕は脇目も振らず、組んだ騎馬の手を振りほどいて一目散に逃げた。

だって体と体がぶつかったら痛いんだもん。

また例えば体育の授業でサッカーをしたらば、ボールには絶妙の距離をとって、なるべく勝負の大事な局面には関わり合いにならないようにした。しかし、何かの手違い(足違い?)で、僕の方にボールが飛んでくることもあった。僕はすぐさまパスを出した。相手が敵味方構わずにだ。

だってボールなんて持ってたら、ロクなことがないんだもん。
  
それくらい僕には闘争心がなかった。

学生時代は一応スポーツマンだったが、中学から大学まで一心不乱にテニスばかりをやっていたのは、テニスというスポーツには、身体と身体のぶつかり合いが起こり得ないことがその魅力としてあったように思う。



また僕に闘争心がないのは、TVでボクシングをやっているのを観ると、すぐ顔をしかめる母親に育てられた影響も大きくあったと思う。

闘争心のない僕は、格闘技にもまったく興味を持たなかった。興味がないどころか、嫌悪感すら覚えていた。人と人が殴り合っているのを観て、何が面白いのかまったく理解できなかった。ただただ、感想は「うわっ。」、「痛そうやなー。」、「この人らアホやな。」という否定的なものしかなかった。



しかし、2015年の年末に奥さんの実家で、お義父さんが格闘技を観ていたので、一緒に観ていたら、驚いたことに僕の格闘技に対する見る目が変わっていた。僕は自分の変わり様に、愕然とした。



観たのは1ラウンド10分もある格闘技だった。最初どんなにパワフルな選手でも、時間が経てば経つほど体力が消耗し、パンチやキックに勢いがなくなってくる。激しくぶつかり合い、お互い血を流し、肉体がボロボロになりながら、殴りあう姿を見て僕は……… 
 

感動を覚えてしまったのだ。勝った選手も負けた選手もどっちもかっこいいと思った。


f:id:themegane3:20160407073008j:image


僕の中の何が変わったのかは心当たりがあった。それはきっと1年くらい前から、僕がバイクのエンデューロレースに参加し出したからだ。



身体と身体のぶつかり合いや競争からは避けて生きてきた僕が、事もあろうに40歳すぎてからバイクの免許を取り、エンデューロレースなんかに出ているのだ。



エンデューロレースとは、「自然の地形を生かしたダートコースで、ライダーの技術と体力を競う競技」のことで、短い時間のレースもあるが、基本的に耐久レースでもあり、2時間レースに参加したときの僕の身体は、まさにボロボロになった。

最初のうちは、友人に誘われてというか、そそのかされて出ていた節があった。レースが終わった後にその友人たちと飲む「うまい酒」が楽しみでやっていたところもあった。内容なんてどうでもよかったのだ。しかし、仲間たちを追っかけて、レースに出ているいるうちに、この頃だんだん心境に変化が出てきたのだ。


僕よりも、もっと前からバイクに乗っていた仲間たちでさえも、100分や120分間を連続して、荒地を走り抜けるエンデューロレースというやつは、思いがけないハプニングに見舞われ、新車のバイクを沼に埋めたり、レース開始早々第一コーナーで転倒して手首を骨折したり、または全身が痙攣しながら完走できずに悔し涙でむせかえるということがある。雨が降っても中止になどならないレース日には、文字通り泥水を飲みながら、ツルンツルンした路面をのたうちまわることもある。

もちろんレース中はぶつかったり、ころんだりして、時には怪我をしたりすることもある。レース中には「なんで俺、こんなことしてんのやろう?」、「早くおうちに帰りたい。」という気分でいっぱいだ。しかし、不思議なことに完走したあとの爽快感ったらないのだ。



そして、一緒に走る仲間たちや他の選手たちの姿を見て思ってしまったのだ。












美しい……と。






考えてもみてほしい。「大の大人が自分の極限まで全力を出し尽くす」なんてことがあるだろうか?いや、これはなかなかないだろう。

格闘技を観て嫌悪感を抱くのは、全力を尽くしたことのない人間の発想だったことに、僕は気付いたのだ。そのリングに上がったことすらないくせに、ぬくぬくとコタツに入ってTVに映った格闘技に嫌悪感をひたすら抱くなんて、なんて無知で失礼なことを僕はしてきたんだ。と深く反省した。

この頃思う。僕がバイクで怪我ばっかりしているのは、これまで人生の色々な局面において全力を尽くすことから避けて生きてきたツケを払っているのだ。

…….と、この文章を担保にして、今年も僕は怪我をしまくるのだろう。さぁどっからでもかかってこい。








さて、残念ながら、こういった気持ちは僕の子供には、まったくといっていいほど伝わっていない。レースに出ても、「パパ勝った?何位やった?」「また怪我するだけやで?」とか言っておちょくってくる。

実は去年、僕の全力を出し尽くした姿を見てもらおうと、家族をあるレース会場に連れて行った。そのレースは、スキー場を使った強いアップダウンや雪解け水の流れた後の溝がコースのあちこちに斜めに走る、かなり厳しいレースだった。その時は、(相変わらず)怪我に継ぐ怪我が多かったため、ほとんど練習できないまま挑んだレースではあったが、少し舐めていたことも確かだ……僕は、そのレースに太刀打ちできずにDNFした。つまりDid Not Finish……途中棄権だ。

スタートしたまま一向に帰って来ない僕を心配する家族の前に現れたのは、担架に乗った僕だ。僕は力なく笑うしかなかったが、それが僕のその時点での実力だった。心底情けなかった。

今となっては、すっかり笑い話だ。もちろんカッコよく走る姿を見せてやりたい気持ちもあったが、なによりも完走してボロボロになった姿をみせたかった。


残念ながら、怪我により僕のその目標は叶わなかったが、僕が家族に本当に見てほしかったのはレースで上位へ行けるかどうかということじゃないんだ。別に勝たなくてもかっこよくなくてもいい。問題は全力を尽くしているかどうかだ。




いつか僕の子供が、(そうだなできれば40歳過ぎてからのほうがいいな……)このブログを見つけて読む時がきて欲しいと思っている。僕は子供らにこう問いたい。












お前たちは今、全力を尽くしているか?





そして、お前たちは気づいているのか?





単なる順位としての速さや見た目の美しさ。






ではなく、泥や汗や鼻水の中に混じる美しさがあるということに………










できることならば、その時にまだ僕は、全力を尽くすことを求めてジタバタしていたいと思う。すでに僕は70前になっているだろうけれども……。








おしまい。